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戸田奈津子wiki経歴!字幕翻訳家への長い道のりと転機!きっかけは祖母?

映画字幕翻訳家で有名な『戸田奈津子』さん。洋画を字幕で観る方は、1度はこの名前を見聞きしたことがあるかと思います。

 

現在86歳という戸田さんは、結婚しておらず、子供もいない、仕事一筋、映画の翻訳に人生を捧げています。戸田さんとは一体どんな人生を歩んで来た方なのでしょうか?なぜ映画字幕翻訳家を目指したのでしょうか?

 

今回は「字幕翻訳家」としての戸田さんに注目!戸田奈津子の年齢・学歴・生まれなどのプロフィール経歴や字幕翻訳家への道のりと転機映画字幕翻訳家になったきっかけをご紹介します!

 

人生の先輩の生き様から、何か学びを得られるのではないでしょうか!「通訳者」としての戸田さんの記事は一番下にあります!

 

 

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戸田奈津子のプロフィール

戸田奈津子の画像
参照元:スポニチアネックス

名前: 戸田 奈津子(とだ なつこ)
生誕地:福岡県北九州市戸畑区
出身地:東京都
誕生日:1936年7月3日
年齢: 86歳
幼稚園~高校:お茶の水女子大学附属
大学:津田塾大学・学芸学部英文学科
職業:字幕翻訳家 / 通訳者(2022/07引退)
肩書き:
・映画翻訳家協会元会長
・神田外語大学客員教授(2011年就任)
・神田外語学院アカデミックアドバイザー(2008年就任)



銀行員だった父親
の転勤先であった福岡県で生まれましたが、間もなく日中戦争が勃発。召集された父親は戦死し、戸田さんが1歳の時に母親の実家のある東京へ。

 

 

東京が空襲に見舞われると、亡き父の実家のある愛媛県へ疎開。終戦を迎えた翌年に焼け野原の東京に戻る。

 

 

結婚もせず、子供もおらず、秘書やマネジャーも置かずに、翻訳の仕事はもちろん、スケジュール調整や事務仕事などもすべて自ら行う。“おひとりさま”を通し、多忙な日々を生き抜いている。

戸田奈津子の経歴と字幕翻訳家への道のり!転機はいつ?

戸田奈津子の画像
参照元:NEWSポストセブン

 

大学卒業を前にして就職活動の時期になり、字幕は誰かがどこかでやっているんだと初めて気付き、私に向いた仕事だと、自分は「字幕翻訳の仕事がやりたい」と思った戸田さんでしたが、業界への繋がりもなく、そもそも当時は正規のルートで翻訳家になる道はなかったそうです。

 

 

ちなみに映画は好きで中学生の頃から良く観ていましたが、その頃は字幕翻訳家になりたいとは思っておらず、あくまで就活を機に考えた時に字幕以外にやりたいものが他になかった」そうです。

 

 

そこで、映画の字幕翻訳の第一人者である「清水俊二」先生に手紙を書いたのです運よくお会いできたものの翻訳家の門はせまく、たやすくなれるものではありませんでした。

 

 

1958年に学校の紹介で、第一生命保険会社の社長秘書の仕事に勤務しかし大企業の組織は肌に合わず約1年半で退社

 

 

翻訳への夢を諦め切れず、個人で通訳や翻訳のアルバイトをしながら、清水先生に手紙を書き続けた戸田さん。結果、清水先生から『鉄腕アトム』などの日本のテレビ番組を輸出用に英訳する仕事を紹介してもらうことに。字幕では無いもののフリーランスとして翻訳のバイトを続け、のちに洋画配給会社と仕事のつながりを持ったのです。

 

 

30代初めの頃に、清水先生から「日本ユナイト映画」という会社を紹介して頂き、翻訳アルバイトをスタート。アメリカ本社への手紙を翻訳したり、新作のストーリーを訳すような仕事で、これが洋画界への最初の足がかりになったのです。

 

 


参照元:Amazon

 

 

ある日、日本ユナイト映画の宣伝部長をしていた水野晴郎さんから、急遽来日が決定した海外映画プロデューサーの会見の通訳を依頼された戸田さん。それまで一度も海外に行ったこともなく、英会話をろくにする機会もなく突然通訳なんて・・・。

 

 

しかし少しでも字幕の仕事につながるチャンスがあるのであれば、断るわけにはいかないと仕事を受けました。自分の通訳のひどさにクビも覚悟していたそうですが、これを機に通訳の仕事が舞い込んでくるようになったのです。

 

 


参照元:Ameba

 

 

戸田さんが初めて字幕翻訳した映画は、フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』この時点で大学を卒業してからほぼ10年が経過。しかし完成した作品を見て下手な自分の翻訳に「画面に違和感なく調和する日本語訳が必要だ」と、映画の字幕翻訳の在り方を学ぶのでした。その後も、年に2~3本のペースで字幕翻訳の仕事をし、他でも翻訳や通訳のアルバイトを続けるほど食べていける状態にはありませんでした。

 

 

 

『地獄の黙示録』のコッポラ監督

参照元:Buzz Feed News

 

 

転機となったのは、それから約10年後。1976年映画『地獄の黙示録』を撮影中のフランシス・フォード・コッポラ監督の来日時の通訳やガイドを務めたことでした

 

 

サンフランシスコのコッポラ邸やフィリピンでのロケにも同行し、本編が完成した際には、コッポラ監督の推薦により日本語字幕を担当することになったのです。この仕事で字幕翻訳家として広く認められるようになり以降、多い時は年間50本のペースで字幕翻訳を手がけるようになりました。

 

 

Luna

夢を叶えるまでに、こんな長い道のりが戸田さんにはあったのですねぇ。( ゚Д゚)

 

通訳や初めて手掛けた映画字幕翻訳は30歳を過ぎてから。字幕翻訳家として軌道に乗り始めたのは40歳をまわってからということになります!

 

この人生の先輩の話を聞いてるだけで、なにか「好きなこと」に対して「信念と情熱を持って追求する」「行動を自ら起こす」「諦めずに続ける」「夢に近づくための道中も努力を惜しまず経験を積む」「やってきたチャンスを逃さない」という姿勢が大事なのだなとつくづく感じましたよ。

 

 

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戸田奈津子の映画字幕翻訳家へのきっかけとは?


参照元:シネマトゥデイ

 

戸田さんの歩んだ字幕翻訳家への道のりは分かりましたが、そもそも字幕翻訳家になりたいと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

 

 

終戦後、洋画がアメリカやヨーロッパ諸国から一気に日本に渡ってきたんです。文化に飢えていた当時の日本人にとって、映画の世界は衝撃的なものでした。TVはまだ未知のメディア。娯楽がほとんどなかったため、映画を観に行くということが当時の日本人にとって最大の楽しみでした。

 

 

私も母に連れられて映画館で洋画を見るようになりました。『キューリー夫人』や『チャップリン』、『第七のヴェール』……。それらの映画たちは、それまで本以外では触れる機会のなかった海外の世界を、私の目の前にリアルに映し出してくれました。もともと物語の世界が好きだったということもあって、すぐに映画の世界に夢中になりました。

 

 

高校生の頃は、おこづかいを切り詰めて映画館に通いました。新作の映画なんて当時の学生にとっては高嶺の花でしたから、3本や4本立てで100円とか、50円で観られる名画座によく行きましたね。大学生になってからは、友達に授業の代返をお願いして映画を観に行っていました(笑)

 

引用元:DMM英会話

 

 

戸田さんが映画の世界観にのめり込んでいった様子がとても伝わりますね。

 

 

映画の世界を知りたくて映画雑誌をむさぼり読み、スクリーンで俳優たちがしゃべっているのと同じ言葉を話したくて、英語の授業に胸をときめかせました。

引用元:NEWSポストセブン

 

 

母親と祖母と3人暮らしをしていた戸田さん。

 

 

英語が読めない祖母のために、頼まれもしないのに海外の写真雑誌のキャプションを訳していました。『こんなに面白くて素敵な情報を独り占めするのはよくない』という一心でした。

振り返ると、その気持ちがいまの仕事の基礎になっているように思えます。

引用元:NEWSポストセブン

 

 


映画が好きだから、英語を好きになっていった戸田さん。英語がわからない人たちに、映画の俳優たちが語る言葉を訳す、ストーリーに合う自然な日本語をつけてあげるということに、楽しさや魅力を祖母をきっかけに覚えていった、そしてそれを自分だけでなく、みんなに字幕翻訳者としてシェアしたいと思ったことがきっかけということですかね

 

 

大学での就活中に友人に「あなたは何がやりたいの?」と聞かれ、無意識に「字幕の翻訳がやりたい」という答えが出たそうです。今までの感動体験が身体に刻まれていたからだったのではないでしょうか。

 

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まとめ

 

Luna

映画字幕翻訳者という夢を叶えるまでに、20年の歳月を重ね、そこから50年以上に渡り映画の字幕を付け続けてきた戸田さんには感銘を受けます!

最後までご覧いただきありがとうございました!

 

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